『ラビッドファイア』

 平然を装って電車に揺られているけれど、僕の身体には、ずっとどす黒い感情が渦巻いている。
    脚を組み替えたり、首を回したりするたびに、チラリと近くにいる同乗者の様子を伺う。
    前方には、眼鏡をかけたスーツ姿のサラリーマンが膝にパソコンを抱え、キータッチに励んでいる。表情は重く沈み、生気を感じさせない。その姿は整い過ぎていて、アンドロイドのようだ。不規則なリズムで訪れる瞬きだけが、肉体に生きている感じを与えている。
    右隣には、しゃがれた老婆。続けざまに見たせいか、その老婆も死んでいる風に見える。老婆は、極端な前傾姿勢で両膝に両肘をつき、祈るように手を組んでから顎を載せている。両の眼は決して開かれることなく、瞼には何重もの皺が刻まれている。老婆はその姿勢を崩さず、僅かばかりも動かない。電車の揺れ動くに合わせて身体を弾ませている。これは、まあ、ある程度の筋活動があるから為せる技なのであって、老婆もまた生きてはいるのだろうが。眼の前にいる人間の生死を疑う僕は、全く現実に即していない。

    少し離れたところでは、女子高生の二人組が談笑している。夏休みなのに制服を着ているということは、夏期講習だろうか。お疲れ様です。

 電車に揺られること十数分。各駅で停車するたび乗車客の方が多く、電車の中が混雑し始めた。制服やジャージに身を包んだ高校生、半袖短パンで肌がこんがり焼けた中年、子供を引き連れる若い女、見ず知らずの人間たちが車内で一堂に会する。お互いの人生に何も影響することはないだろうけど、そこには確実に縁が存在していて、僕たちは必然的に出会った。こう考えるとなんだか不思議。何故なのかうまく言い表せないけど、ふわふわと浮ついた様な、夢心地、そんな気分。朝の日差しは優しくて空気が暖かい。開けた窓から入ってくる風が気持ちいい。少し眠ろうか。イヤホンはずっと「day dream believer」を繰り返している。

 

 夢の中なのか疑うほどのリアリティ。僕は現実と寸分違わぬ夢を見ていた。ここは、先ほどまでいた電車の中。登場人物も同じ。前方にサラリーマンが居て、側方に老婆が眠っていて、遠くから聞こえる女子高生の笑声。あとから乗車した客も皆一様に同じ。唯一、現実と異なっているのは、僕自身。精巧に創られた箱庭で、僕にだけリアリティがない。ゲームの画面を見ているみたいに風景が遠く離れて見え、その感覚が、この世界が夢であることを僕に確信させた。精神が昂揚しているのを感じる。脚をもう一度組み替えようと意識すると、少しラグがあってからゆったりと実行される。単純酩酊、と言ってしまって良い。視界がぼやけ、ふらふらと立ち上がった僕は、ニヤニヤ笑っている。僕ってば気持ち悪いなあ、と思っていても破顔を抑えられず、抑えようと意識する程笑いがこみあげてくる。ヒヒヒ、ヒヒヒ、サラリーマンが手を止めて怪訝な目で僕を見やがる。うぜえなあ。あはは。ついには、笑い声が電車内に響き渡るほど大きくなって、全員から怪訝な目を向けられるようになってしまった。やめなくちゃ、僕はキチガイではないのだから平静を保たなくては。でも、まあ、僕はキチガイだったか。最近ではマトモに暮らせていて、どうも忘れてしまっていたらしい。笑えるのなら、どうか笑い者にしてくれ。って、あれれ、隣のばあさんはまだ死んだふりをしてやがるぞ。こんなときにどうでもよいことに気がついてしまう。こんなに僕が叫んでいるのに、おばあさんは知らん振りを決め込んでやがる。って、僕は場違いに激昂。おいコラ反応しやがれ、と僕はおばあさんを殴り飛ばしてしまいました。倒れたおばあさんに馬乗りになって、右に左に平手打ち。オラ、起きろババア、殺すぞ。僕は何を言っているのだろう、頭がおかしくなってしまったのですか? でも、すごい爽快感なんだよね。この異常事態に車内は騒然、多くの人が対応に困って遠巻きに眺めている。僕は殴るにも疲れてしまって、これで最後だ、と大きく腕を振り上げ、振り下ろそうとする直前誰かに腕を掴まれてしまった。僕の細腕はたいした抵抗もできないまま床に押し付けられ、今度は僕がマウントを取られる番。うぐうう、うがああ、とか品性の欠片もないうめき声をあげて必死に抵抗するけれど、太い腕は決して僕を逃さない。うつ伏せにされて腕を締め上げられ、もう降参。身体から一切の力を抜き、頬を床に擦り付けた。もう降参です。それに合わせて僕を組み伏せた力は緩まった。この正義感溢れる男は、どうやら後から乗車した客の一人のようで、こんがり焼けた肌は先ほどみたものと同じだ。一番近くの、僕を止めるには絶好の距離に居たサラリーマンは、何故かパソコンのディスプレイを凝視したまま微動だにしない。目の前にこんなに面白いものが転がっているのに、見ようともしないのは何故なのだろう。おっさんの「どうしてなんだ、頭がおかしいのか」という怒りと恐怖の言葉を聞き流しながら、女子供のヒステリックな叫びを無視しながら、僕の挑戦はここで潰えたこと、敗北してしまったことに思いを馳せた。
    こんなこと、本当はしなかったほうが良かったんでしょうね。でも、最後に自分の好きに振舞えてよかったと思います。僕は、今までずっと、いまこの網膜に焼きつく、「GAME OVER」の表示が見たかったのですから。悔いはありません。僕は僕自身の力で、この狂人の人生に片をつけてやれたのですから、個人的には上出来なくらいです。一人、尊い命が犠牲になってしまったかもしれませんが、半分死んでいるようなババアなので問題ないでしょう。みなさん、僕のような狂人が生まれてきてしまってすみませんでした。ですが、ついに化けの皮を剥がしてやることに成功しましたよ。僕は、ようやく迷いなく死ねます。気分はすっかり晴れました。車窓から眺めた夏空のように澄み切っています。と、晴れやかな気持ちで、最後に女子高生のパンツでも眺めてやろうと、這いつくばった姿勢から顔を上げました。そこに広がるのは、徹底的な、絶対的な、公平さが、正しさが支配する、僕の大嫌いな現実でした。僕はほとんど瞬間的に床に頭を打ち付けていました。僕は、この正しすぎる現実をほんのちょっと歪ませたかっただけなのかもしれないなあ。結局それは叶わなかったです。真正面からぶつかって歪んでしまったのは、僕のほうでした。

 

 後から聞かされたことは2つ、僕が夢だと言い張るのはやはり現実であったこと、僕はこの病棟で一生を過ごさねばならないこと。