『不可説不可説転抄』

    記憶ごちゃごちゃ、視界ちかちか、身体の輪郭がぼやけ、地上と接点をなくし、僕は宙ぶらりんのふわふわだけれど、胸のあたりから重たい錨が垂れ下がっていて、心だけ地べたを這いつくばって離れない。

 

    試しに体温を測ってみたら、38度6分。ずっと気分悪かったが、なんだ熱か。どうしようもない悲劇かと思ってた。悲劇ならロマンチックに死んでやれたのに、単なる病熱ならロマンの欠片もないじゃないか。普通に病院行って、普通に診察受けて、普通にお薬貰うだけだった。普通普通普通のことだった。この程度に悲劇性を見出すほど自惚れてないぞ。凡人で終える人生を、僕は受け入れている。大人になったのだ。数え切れないほどの人生、その中の一つの物語。わかっている。けれど、そう考えると、気持ちがくさくさしてしまう僕は、八つ当たりの感情で救急車を呼んでしまいましたとさ。なんだ、全然受け入れてないじゃないか。呆れるなあ。

「アラアラ、このお坊ちゃんは他人を便利な道具程度と見倣しているのでしょうか。貧しい人間性ですこと」

    どこからか声も聞こえる。

    あはは、まあいいや。可哀想な自分を赦してあげられるのは自分しかいないのだから赦してあげよっと。それにしても「死んでしまいそうなんです」と弱々しく告げたとき、電話口から固唾を呑む音が聞こえて笑えたなあ。

 

(ふざけた僕を蛍光灯が暖かみのない光で見下します)

 

    昼間だってのにカーテンで自然光を遮り人工灯に頼りやがって、なんて不経済な奴だ、と言わんばかりの光でピカピカしてきます。      あれあれ、こうして見ると、なんだか僕のお母さんみたーい。僕にうんざりしてるくせに目を背けようとしないところがそっくり。ピカピカ輝いて己の機能を全うしているよ、あれは。なんて正しい奴なのだろう。僕の正しくなさをはっきりと照らしてみせてる。

    情けなくなった僕は、電気を消そうと立ち上がると頭の血が全部下に落っこちて膝から崩れ落ちてしまいました。

 

(ため息が聞こえます)

 

    いやいや、まだですよ。僕を見くびるには、ちと早いです。もう一度踏ん張って、全身全霊の力で、間断ない意志力で立ち上がってみせようぞ、と床を撥ねても、重力に抵抗できずにずるずると寝そべってしまいます。

 

(ため息が聞こえます)

 

   やっぱり駄目でした。だからもうため息はやめてください。僕を見ないでください。僕がとことん不愉快なのはわかっていますから、それなら無視してくれたっていいじゃないですか。不愉快な僕に構わず幸せに生きてください。迷惑はもうかけたくないんです。はやく死なせてください。死にたくて、死にたくて、体が引き裂かれそうな思いで、死ばかり考え、苦しくて、苦しくて、あ、やっぱり死にたくはないです。死ぬなんて馬鹿馬鹿しい。死ぬことを考える僕は一介の文豪みたいでカッチョいいなぁ(笑)、悲劇のヒロインみたいでかわいいなぁ(笑)、お前が抱える悩乱の卑しさに吐き気がしてくるよ、と、内面に向かうナルシシズムを冷ややかに批判する自分もいるわけで、いっそ希死念慮だけ抱いて延々と泣いていれば楽なのに、僕はどうかしているのでしょうか。
    わはは、そうだった、そうだった、僕はどうかしているのだった、わはは、ウジウジ悩んでんじゃねーぞバカの分際で、と笑い飛ばしてもしっくりきません。
    僕は悲観したいのだろうか、楽観したいのだろうか、幸せを願っているのだろうか、何も願っていないのだろうか、他人は僕をわかりやすい人間だというけど、僕は全く自分をわかってやれません。

 

(蛍光灯は、泣き笑いを繰り返す支離滅裂な僕の一部始終を、その三白眼で余すところなく見つめています)

 

    それで何かわかりましたか?

 

 

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    遠くで救急車のサイレンが鳴っている。あれはきっと僕を迎えに来たものだろう。でも嫌だなあ。救われたくねえなあ。アハハ。自分で呼んだくせにおかしなこと言うね。けどさ、いま、やっとロマンチックな気分で死ねそうなんだ。

 

    数え切れないほどの人生、その中の一つの物語。