『散髪』

3ヶ月振りにやっと床屋へ行きました。


今の今まで散髪をサボっていたのは単に面倒くさかった、それと、対人コミュニケーションに難がある、というのが主な理由でした。
理容師と何を話せばいいのかわからないというのが、なんというか、自意識過剰さを物語っているよね。
ムスッと座ってるだけでは人間として駄目だ、理容師も人であるのだから不快にさせたくない、そういう思いから僕が行くには分不相応な場所だな、行きたくないな、と、ああ、なんて自意識過剰っぷりなのでしょう。
だから床屋に行くのは躊躇していたのですが、上司から一言、髪を切りに行きなさい。はい、上司様、行って参ります。
と、そういった次第で、ええ、冒頭で自発的に床屋に行ったと思われるような書き方をしましたが、あれは嘘です。
正確には常識的な考えを振りかざされ、否応なく従わざるをえなかったと言うべきでした。
ほんと、意味の無い嘘をつくでしょ僕って。
皆さんには何故嘘をつくのか理解不能でしょうが、心に張りつく安っぽいプライドが嘘をつかせるのです。
そんなプライド捨ててしまえよと思うのですが、僕には宝物と呼べるものがこれくらいしかないので捨てるに惜しいのです。
ああ、くだらないですね。
自分の殻に閉じこもってガラクタばかりを抱き寄せ、本当に大事なものを見過ごし、得るべきものを得ない人生にどれほどの意味があるのでしょうか。
その長い髪の毛を放置しておける精神性がお前の在り方を物語っているぞ、と呼んでもいないのに自分が自分に語りかけてきます。

「身だしなみを整えるなんて常識だろうが。社会人にもなって小学生でも気をつけること注意されやがって。お前は本当に頭がおかしいよなァ?」

あーうるさい、うるさいなぁ、これぞ自意識過剰というものじゃないですか、あなたの言うことは全て自己愛から発せられたもので、なんら普遍的でなく、どこまでも主観的な内世界の感覚です。
だって僕よりも長い髪の毛で根暗そうな人間は世界にごまんといますよ?
僕の根暗さは偏差値47くらいのもので僕より下なぞ探せば探すだけいると思いますよ。
こんな一般論、僕に吐かせないでくださいよ。
いやはや、これぞ自己愛、自意識過剰といった所感です。
結局僕は自分を愛しているので少し道を踏み外そうとしただけで苛烈に自己嫌悪し性格の矯正を図るのです。
それは人間誰しもが抱える機制で、何が「頭がおかしいよなァ?」ですか、至極真っ当な人間反応じゃないですか。
しかも、これから髪を切るに行くと決意している人間の頭がおかしいわけがないですよね。
髪がちょっと長く伸びてしまっただけでこの大騒ぎ、赤っ恥です。


グダグダ考えながら歩いているうちに、目的の床屋に到着しました。自動ドアを抜けると、いらっしゃいませー、と挨拶が飛んできます。
うん、いいよね。お店っていいよね。お金を払えば店員が恭しく髪を切ってくれる、僕ってまるで人間みたーいってなりますよね。
ふふんっと席に着いたら、後ろから鏡越しに理容師さんが語りかけて、今日はどういたしますか?
そこで、「瑞々しくて清潔な春の七草をイメージした髪型で」とでも答えておけば、まさに人間。
これが人間活動というものです。うん、いいね。僕も人間でよかったなぁ。


ジョキン、ジョキン、と理容師さんは僕の不潔な髪の毛を散髪してくれています。
鏡に写る自分から目を逸らしている間って、何を考えていたらいいのかわかりませんよね。
ボーッとしていればいいのでしょうが、僕の場合、気を抜くとすぐ頭を垂れてしまって、その都度、理容師さんに頭の位置を正されるので、申し訳ないような気がして一瞬たりとも気が抜けません。
頭を動かさず視線を外すには、相応の集中が必要ですが、それだけに集中する分には不必要なほど僕の脳は発達しすぎているので、何かを考えられずには居られなくなってしまうのです。
けれど、何を考えたらいいのかわからない。みなさんもそういう経験ありませんか?


その間も、ジョキン、ジョキン、と、理容師さんは快刀乱麻の勢いで僕の不潔な髪を散髪してくれています。
バサッと落ちる髪の毛が、さっきまで大切な自分の一部であったはずなのに、急にゴミに見えてきて、少し嫌な気分になります。
嫌な気分になった僕は、それが呼び水になって、沸々と嫌な妄想を換気させてしまいます。
その日は、僕から発せられる不愉快さ、気持ち悪さ、を鋭敏に感じ取った理容師さんに、切れ味抜群のひげ剃りで、ドクドクと脈打つ頸動脈を撫で切りにされてしまったらどうしよう、前掛けを紅く染めていく血液を見た僕が、散髪された髪の毛を眺めるように、それをゴミだと判断したらどうしよう、と考えてしまいました。
今思うと、全く意味のない仮定で、とんだお笑いぐさではあるのですが、その時の僕は顔を青くして、どうしよう、どうしよう、と狼狽えていました。

僕は死がとても恐ろしい。死の前では、僕は全くの無力になってしまう。こんなことになるのなら、人間になぞなりとうなかった。人形かなにかになりたかった。
もう髪を切るのはやめよう。人間のフリをするのはやめよう。そして、だらしなく髪を伸ばし続け、ウェディングドレスのように髪をぞろぞろ引きずらせながら全国を行脚しよう。
そうすれば、僕は有名人になれるかもしれない。死後、悪趣味なマニアに標本とされ、人間の醜悪さを後世に伝える立派なオブジェになれるかもしれない。

とまで考え、馬鹿馬鹿しくなって今までの思考を全部投げ捨てました。
何故って、そんなものになれるはずないもの。
芸術になれるほど強靭な意思を持っていたら、僕は今までこんな苦労していないはずです。


散髪は一通り終わったようで、「ご確認ください」と鏡を見るよう促されました。
見ると、ああ、自分がゴミに見えます。