『アンパンマン最終回』

顔が濡れたアンパンマン、そんな感じ。ヘロヘロとへたり込み、そこから一歩も動けない。目の前をバイキンマンが余裕たっぷりの佇まいで陣取り、僕を嘲り見下している、そんな感じ。

絶体絶命の危機的状況ではあるが、僕に何も心配はなかった。いつも、ここぞという場面でバタ子さんが焼き立ての新しい顔を持って馳せ参じてくれるからだ。新しい顔と交換さえすれば「元気百倍! アンパンマン!」。ふんぞり返るバイキンマンを正義のグーパンで遥か彼方に吹き飛ばし、ハッピーエンドの大団円。多少、デティールに違いはあるものの、毎話繰り返されるお約束のパターンだ。だから全然余裕だ。具体的には、「このー! バイキンマンめっ!」と熱演し、ピンチな状況の演出に貢献できるくらい余裕。

それにしても遅いなバタ子さん。いつもなら到着してもいい頃合いだが、今日は特別に遅いな。道路条件でも悪いのかしら? と勘繰っているうちにも時間は刻々と過ぎ、濡れた顔面に生えたカビは休むことなく繁殖し続け、気付けば僕の顔を土くれのようにぼろぼろにしてしまっていた。顔を掻くと淀んだ緑に変色したアンパンの欠片が、大粒の涙のように零れ落ちる。そうした光景に、縄で縛られた囚われのウサ美ちゃんが、おぞましいものを遠巻きに眺めるときと同じ冷ややかな視線を注ぐ。うわあ、仮にも君を助けに来た正義のヒーローに向けていい視線じゃないな。クソぅ、バタ子さんや、早く来ておくんなし。とバターにも縋る思いで念じていると、ついにやってきました車体を揺らしガタゴトと。現在の状況に当てつけるかのように僕の顔面を模した特徴的なフロントがピカピカと輝いている。あれは見紛うことなくアンパンマン号だ。バタ子さんが、運転席のカーウィンドウを全開にして、身を乗り出し手を振っている。

ふう、とりあえず一安心だ。あとは新しい顔に取り換えてバイキンマンをぶちのめすだけ。と、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、あらぬ角度から事態は急変する。手を振るバタ子さんの姿をよく観察すると、その手には煙草が握られているのだ。うわあ、幼児向けアニメのキャラクターが煙草に手を出しているぞ。あろうことか、煙草を持ってご登場されているぞ。やっちまったな。これじゃあ、バタ子さんじゃなくてタバ子さんだよ〜。全然笑えんわ。というか、今まで僕に隠れて吸っていたのだろうか。長年の付き合いなのに知らなかったな。まあ、助けてもらう手前申し訳ないが、今日限りで降板だな。悪く思うなバタ子さん。今の時代、煙草はどこも厳しいからな。あ~あ、大切な仲間を降板させなきゃいけないなんて、正義の味方に徹するのも辛いものがあるなあ。さて、気を揉むのは後にすることにして、今はバイキンマンをやっつけることに集中しよう。そうだな、後任は福原遥ちゃんがいいな。

さあ、最後の仕事だ。新しい顔を寄越すんだ。こちとら、ぼろぼろで異臭もすごいんだよ。って、あのバカ、今頃自分が煙草持っていることに気付きやがった。左手に持っている新しい顔を見つめて何やらジッと考えているぜ。つうか、いつからだろうな、僕の大事な新しい顔を両手で持つことをやめ、片手で持つようになったのは。

いい加減早くよこしてくれ。いつまで新しい顔と睨めっこしてるつもりなんだ。あー、わかった。わかっちゃいました。アイツこのまま帰る気だな。今日で最終回にするつもりだな。哀しげな目で僕に一瞥くれやがったぞ。本気なのか? うわあ本気で帰りやがった! きっとジャムおじさんに「私が来た頃にはもう… 自分の非力さが憎いです」とでも言い訳するんだろうな。最低だ。人間の屑だ。と思いを巡らせている間にもアンパンマン号はズンズンと遠く離れていき、呆気に取られていたバイキンマンは元の調子を取り戻すと一層高笑いし、囚われのウサ美ちゃんは身も世もないといった感じで泣き喚きだした。カビが餡子まで到達した僕の命は風前の灯だ。個人の身勝手な振る舞いで正義が滅び、悪徳が栄える。正義のなんと脆いことよ。と、アンパンマンが今際の際に抱く虚無感と同じくらい、最近の僕は虚しい気持ちでいっぱいです。