『幽体離脱』

ぼんやりと微睡み、快楽のさざなみに心を委ねているうち、ふと悪臭に気がついた。
これは、ぼくの死体が浴室で腐敗しているにおいだ。途端に目がさめた。

今の今まですっかり忘れていたけれど、ぼくは死んでいるのだった。

急いで浴室へ向かい、ドアを開けると、ぼくが全裸でぶっ倒れている姿があった。
滑って頭を打ち付けたのか、頭部が血溜まりとなっている。
身体は蒼白く、鬱血の青紫色が血管に沿って葉脈のごとく浮かび上がっている。
ぽっこりと浮腫んだ腹部だけどす赤黒く、今にも破裂しそうだ。
そして、そんな死体の周りを数十の蝿が飛び交っている。

酷い絵面だ。それに強烈な悪臭。

ぼくは堪らなくなって、身体を震わせ、苦しみに喘ぎながら嘔吐いてみたけれど、元より吐き出されるものがないというのはわかっていた。
きっとこうした反応は幻肢痛と同じで、肉体を持っていた頃の名残なんだろうと思う。

ぼくは嗅覚や胸の苦しみを遠ざけようと意識的に心のなかで繰り返し念じた。

(腐敗臭を嗅ぎとるぼくの鼻は、あそこで腐っているのだから、今、ぼくが感じるにおいは幻)

(消化器どころか、運動器も循環器も神経すらも、肉体のぜんぶがあそこに置いてあるのだから、今、ぼくが感じる苦しみは幻)

すると、引き潮のように感覚が遠のき、心に安寧が訪れた。

霊体とは実に便利なものだ。
大量の薬剤を服薬せずとも心は常にふわふわと心地よく、稀にこう不安定になることも多少あるけれど、肉体的苦しみとそれに付随する精神的苦しみから解放されたんだから、総じて僥倖と言えるだろう。

と、ぼくは思った。
思った。
誰が?
ぼくが?
おまえが?

身体がないのにどこでものを考えているんだ?

沸々と疑問が溢れでると、心が急速に不穏へと傾いていく。イケナイとわかっていても、考えてしまう。

そして、一瞬の暗転。訪れる錯乱。狂気。姿が写らない鏡に向かって絶叫した。

「おまえは誰だ」





次の瞬間にぼくは倒れていた。

ずきずきと頭が痛む。ひどい腐敗臭がする。恐ろしく寒い。立ち上がろうとして、身体が動かないことに気づいた。金縛りのように動かない。

なぜか、瞳孔が開ききった目玉だけはぎょろぎょろと動き、眩しすぎるながらも浴室にいることはわかった。

ドアを開く音が聞こえた。

反射的にそちらを見た。

すると、ぼくのすがた。ぼくのすがた?
ぼくはいまこうして倒れているはずなのに、どうしてぼくがぼくを見下しているの?
たしかにアレはぼくだ。間違いない。なら、ここで物思うぼくは誰?

と、ぼくは思った。
思った。
誰が?
ぼくが?
おまえが?

かち割れている頭でどうやって?

ぼくは無言で絶叫した。

「おまえは誰だ」





救急車のなかで目がさめた。ほっと胸を撫で下ろす救急隊員の表情が目に映る。

その目、誰の目?

「もちろん『ぼくの目』だよ。それ以外にあるのかい?」

「そうなんだ。ところできみは誰?」

救急隊員の訝しむ目。もしかして、口にだしていたのか? いや、だしていないはず。わからない。自分がもうわからない。

「お気の毒に。あなたは統合失調症です」

ぼくのなかのぼくがけたけたと笑った。