『レイトショー』


眠ってしまっていたようだ。
首筋が軋むのを感じながら顔を上げると、煌々と輝くスクリーンが、暗い場所で椅子に縛られた女性が黒ずくめの男に銃を突きつけられているシーンを映していた。あれ、確か、眠りに就く前もこの女性は椅子に縛り付けられ、泣き喚き、男に命乞いをしていた気がする。ということは、眠ってからそれほど時間は経っていないということだろうか。今では、金色のブロンド髪が乱れ、涙が枯れ、擦り切れてしまった声で小さく「殺してください」と連呼するようになっていたが。
ま、それならよかった。高い金を払っておいて上映早々寝過ごしてしまいました、では、あまりにもやりきれない。凝り固まった両肩を回してから、ドリンクホルダーに手を伸ばし、やけに値段が高い割に氷ばかりのコーラを掴むと、ぬるくなっていることがわかった。どうやら氷が残らず溶けてしまっているらしい。口に含むと、炭酸が抜けてい、薄くなった味と相まってとても飲めたものではなかった。まだ映画が始まってから20分と経っていないはずなのに。
コーラをドリンクホルダーにつっ返し、僕は隣に座る彼女に声をかけようか迷い、結局やめた。彼女は食い入るようにスクリーンを見ている。
そもそも映画館くんだりまで足を運んだのは、彼女の誘いがあったからだ。彼女はサイコスリラーというジャンルのマニアで、今回の映画はその筋で有名な監督がメガホンを取っているらしい。彼女曰く、「人を狂わすことに関して天才的な監督」だそうだ。そう宣伝されたら僕としては黙っちゃいられない。話を聞いたその日のうち―つまり今日―、彼女を引き連れ映画鑑賞と相成ったというわけだ。
地方の寂れた映画館だからチケットは簡単に取れた。おまけにレイトショーの時間帯ともあれば、鑑賞者はまばら。僕たちのようなカップルが2,3組と一人客が5人前後といった次第だ。空席の方が目立つ。僕たちは呑気にドリンクとホットドッグを買ってから、特段並ぶこともなく指定席へ座った。
買ってきたホットドックは冗長な案内と近日公開の映画予告を眺めているうちに食べ終わってしまった。そして、そういえば小腹を満たした僕は、快適な空調と照明が適度に落とされた睡眠には絶好の環境で、上映前には眠っていたはずだ。少し眠るから始まったら教えてほしい、と、彼女に言付けていた記憶がある。あれ、記憶の辻褄が合わない。
ホットドックの食べ滓が歯に挟まっている。僕は一度気にしてしまうと意地でも除去せねば気が済まない性分なのだけれど、こういうのって、いくら躍起になろうが取れないものだよね。今回の場合も例によって取れないので、気を紛らわすため、映画に集中するよう努めた。
映画では、女性が眼前の何かを見続けることを男に強制されているようだ。その綺麗に整った顔面が青白い光を照り返していた。何を見せられているのか、カメラワークはそれを巧妙に隠している。女性はそれを見る都度、絶望を顔に浮かべ、泣き言を漏らしている。しかし、この映画はいつまでこのカットを垂れ流すつもりなのだろう。
「なあ、始まる前に起こせと言わなかったか」
彼女の方へ少し身体を傾け小声で尋ねた。
「え、起こしたはずだけど」
僕の方を見向きもせずに彼女は言う。
ということは、起きた直後にもう一度眠ってしまったということだろうか。実感がわかない。
「つーかさ、この映画そんなに面白い? 見たところ延々と女性が椅子に縛り付けられているようだけど・・・ しかも画面のトーンが赤みを帯びたり青みを帯びたり、今は緑っぽいね。これってわざとなの?」
「ん? 全然変わってないよ? 急にどうしたの? 大丈夫?」
相変わらず彼女は僕を見ない。心配している素振りは見せるが、なんとなく声が棒読みだ。
まあ、彼女にとっては面白いのだろうな。鑑賞の邪魔をするな、という意思がひしひしと伝わる。
「気分が悪いかもしれない。トイレに行ってくる」と言い残して僕は席を立った。
にしても眩暈がひどい。久々に外出したせいだ。振り出した脚の着地点が安定しない。頭の奥底で頭痛が静かに鳴っている。人を狂わす監督だと彼女は言っていたけれど、そのせいだとしたらあまりにも馬鹿げている。
ふらつく足取りでトイレに向かい、入ってすぐにある洗面台に両手をつき、がっくり項垂れてみる。そして上目遣いでその姿を見やる。鏡に映る自分の姿は不思議だ。自分が思っている自分とは少し離れたものを感じるのは僕だけだろうか。手入れを怠った肌がシミを作っている。目もとにはうっすらと隈が浮かんでいる。目を凝らさずとも数本の白髪が確認できる。端的に感想を述べると、僕はこんなにも老いてしまっていただろうか。自分はまだまだ若者の部類だと思っていた。しかし、正しいのは鏡に写る自分の姿だ。僕は深く瞑目して、かぶりを振ってからトイレを出た。
もう歯に挟まった食べ滓は気にならなくなっていた。意識の俎上に載りはしたが、先程までの嫌悪感はもうなくなっていた。
そのままロビーにあるソファで時間を潰してもよかったが、誘われて来た以上彼女に申し訳ない気がして、結局戻ることに決めた。
重い扉をほんの少し開け、身体を滑らせるように暗室に入る。スクリーンはいまだに女性が拘束されている様を映し出している。先刻との相違点は一つ。彼女が笑っているところだ。それも凄惨に。
キャハハ、キャハハハハ
さすがに異常な光景だ。正視に耐えられない。これを見て、鑑賞者は何を面白がればいいのか理解に苦しむ。現に、鑑賞者の数人が席を立ち映画館を後にしようとしている。すれ違う人々の顔は皆一様に困惑の表情を浮かべている。
「みんな帰ってるみたいだよ。僕たちもこんな映画からさっさとおさらばしよう。これのいったい何が面白いっていうんだ。さ、帰り際に飯でも食って仕切り直しといこう? ね?」
僕は席に着くなり捲し立てるように話しかけた。他人の迷惑を顧みる余裕はすでになかった。焦りと怒りで、握った掌に汗が滲んだ。
彼女は答えない。面倒そうにチラリと視線をこちらへ向けただけだ。
「理解してやれないけど、君が面白いって言うなら観ているがいいさ。とにかく、僕は席を立たせてもらうからね」
もう限界だった。笑いが館内を反響し回って、ただでさえ痛む頭が余計に苛まれる。
女性は間断なく笑い続けているせいで喉が擦り切れ、口の端のあぶくが赤く染まっている。瞳孔は開かれ、像を結ぶことを放棄しているようだ。
「・・・外に出たって何にもないよ」
ぽつぽつと、独り言の間合いで、彼女は呟く。
「あるのは、際限なく広がる真っ暗闇だけ。だから、外に出たって意味ないの。」
僕は、困惑せざるを得ない。彼女の言っている言葉の意味がわからない。まるで、自分が、発狂していることに自覚がない異常者のように思えた。目の前の女性のように叫んでしまいたいのを隠し、扉へ駆けた。そして開ける。真っ暗闇。閉める。開ける。真っ暗闇。あるはずの廊下が黒一緒くたで塗りたくられている。嫌だ。こんなはずはない。扉の取っ手を握りしめ、恐る恐る外へ一歩踏み出す。足底に確かな感触が広がる。体重を傾けても踏み抜くことはなさそうだ。どうやら、地面らしきものはあるらしい。しかし、次の一歩が、どうしても踏み出せない。身体を闇へ完全に預けてしまうことになるから、駄目だ、できない。僕は心細くなってしまい、身を引いてしまった。早鐘を打つ心臓が痛い。頭が煮え立っているのに、血の気が引いている感じ。
僕は、彼女のもとへ戻らないわけにはいかなかった。彼女はこの異常事態について何か知っているはずだ。扉を閉ざし、振り返ると、他の鑑賞者が彼女も含めて一人残らず消えていることに気付いた。誰もいない。誰も、いない。スクリーンの女性は、露骨にうろたえる僕を見て笑っているようだ。いや、最初から、僕を見て恐怖し、笑っていたのだ、そうに違いない。発狂している。僕は直感し、頭を抱えた。発狂している、僕ではなく、この世界が。
ひとまず、席へ戻ることに決めた。理由はない。どこへも行き場がないからそうした。なにか手掛かりでもあればと思うが、土台無理な話だろう。座席の真横へ着くと、彼女の座っていたはずの席に小さな人形が鎮座していた。布生地に綿を詰めた、ボタンが目玉の、よくある人形。オレンジ色の毛糸の髪はドレッドヘアみたいだ。あはは、愛しい彼女は人形に変わっていたのでした。もう大した驚きもない。というか、待てよ。僕に彼女なんてあったか? 誰かと恋仲に発展した記憶は少しもないのだけど。思い返そうとしても、彼女と過ごした日々の出来事をあげつらえない自分に気付いた。僕は人形を、両手で悠々抱えられる程度の人形を、彼女と思い込み、愛していたのか。自分自身に寒気がする。
床が濡れている。そこから甘ったるい匂いが立ちのぼり、鼻腔を掠めた。ドリンクホルダーからコーラを取り上げると、コップの底が破れていた。紙でできているからにしても耐久性がなさすぎる。長い時間放置されたかのようだ。眠りに就いてから目覚めるまで、それほど時間が経っていないと僕は判断してしまったが、今思えば、映画のシーンを基にそう判断していたのだったな。あれは、誤りだったか。ご存じの通り、この映画は狂っているからアテにならない。ということは、永い眠りについていたらしいな。その割に身体はピンピンだけど。まあ、この世界も狂っているからな。飲み物だけ劣化の進むスピードが早い可能性だってある。それ、正気で言っているの? そっか、僕も狂っているのだったな。彼女の存在が妄想の産物だった僕も。僕も。僕は狂っているからな僕も。映画の主人公ならば、強靭な精神でこのミステリーを見事解決させようとするかもしれないけど、僕はもうどうでもよくなってしまったよ。

「意志」というのは、決して覆らぬ事実を前提に発露されるものだと思います。未来に算段を付けられるのは、現実を信じているからです。何も信じられなくなってしまったのなら、考えることを辞め、目の前の出来事をただ受け入れていくしかないのです。

僕は仕方なく席に座り(席というのは座るものなんだろ?)、どうでもいいけど前を見据え(鑑賞というのは目で追うものなんだろ?)、なにも面白くないけど泣いたり笑ったりすることに決めた(映画というのは泣いたり笑ったりするものなんだろ?)、映画が終わるまでずっと(終わりあるものなんだろ? 別に違ってもいいよ。そのときは永劫観続けるだけだから)。とまで考え、僕は心の底から爆笑した。
どんな問題も気にしなければ全て解決するのだ。